じゃがいも少年のエンタメHISTORY

神戸生まれ神戸育ちの丸坊主いがぐり中学生が後にバンドでメジャーデビューし、バンド解散後、芸能事務所の音楽制作スタッフとして拾われ、大御所芸能人Kの運転手兼付き人を経て、敏腕!?マネージャーになるまでの思い出と、そんなじゃがいも少年から見た当時の特殊な芸能界の裏側なんかの記録を綴ります。

大阪進出

じゃがいも少年達の地元の神戸には中心地の三ノ宮を中心にいくつかライブハウスがあるにはあったのですが、ジャズ系のライブスペースなどが多く、じゃがいも少年達の様なオーソドックスな駆け出しの若いロックバンドが出演出来る様なライブハウスが2軒しかない状態だったので、大体月1回程度代わる代わる出演させてもらっていたのですが、バンド結成の翌年1994年、大阪でも積極的にライブをやっていくことにしたじゃがいも少年達。

 

神戸と大阪なんて目と鼻の先ですが、生まれも育ちも生粋の神戸っ子の4人はほとんど神戸から出たこともなく、この大阪進出はじゃがいも少年達バンドにとって大きな一歩でした。

 

「ぴあ」などでピックアップされている大阪のライブハウスに電話をかけて条件を問い合わせ、比較的チケットノルマの低いライブハウスに焦点を絞り、デモテープを送り付けるじゃがいも少年。

 

大阪の少し手前の尼崎、大阪梅田、心斎橋、江坂、天王寺、天保山などにあるライブハウスに次々出演させてもらうようになり、月1回のペースだったLIVEの本数が、夏から秋にかけて多い時で週1回になっていき、それに加え時代の波もあり、大学の学園祭のアマチュアバンドコンテストやレコード会社のオーディションLIVEなんかにもちょこちょこ出られるようになって、じゃがいも少年達は自然とバンド中心の生活になっていったのでありました。

ファンの登場

週2回程のスタジオでのリハーサルで新曲を完成させながら、月1本のペースでLIVEをしていくじゃがいも少年達。

 

LIVEごとにバイト先の友人にチケットを買ってもらったり、同級生に買ってもらったりと集客は相変わらず苦戦続きの中、たまたま他の対バンのお客さんの中からじゃがいも少年達のバンドの曲を気に入って、LIVE後にしゃべりかけてくれ、次のLIVEにはじゃがいも少年達のバンド目当てに来てくれるようになったお姉さんや女子高校生達が現れ出すという、いわゆるファンの登場に色めき立つじゃがいも少年達。

 

ファンがもっともっと増えればチケットだって買ってもらい易くなるし、何よりもLIVEや曲作りへのモチベーションにつながる。それより何より自分達のバンドのファンが存在するなんてうれしいし楽しい!ということで、より一層新規客、いわゆるファン獲得を意識し、LIVE後のアンケート回収やデモテープ販売に力を入れるじゃがいも少年なのでした。

対バン

ライブハウスに出演する際には自分達だけではお客さんをたくさん呼べないのと、ライブハウス側も商売にならないので、他の出演バンド4~5組と順番にステージに立つことになり、これを「対バン」と呼んでいました。

 

おそらくバンド対バンドというのが語源なのですが、大体4~5組程のジャンルが近いようなバンドをライブハウス側が組み合わせ、組んでいくのですが、1組だけでは少ないお客さんも5組のバンドのお客さんを合わせればそれなりの集客になるというのと、他のバンドが呼んだお客さんに自分達のバンドを気に入ってもらえれば、自分達の新規客になってもらえるかもしれないというのがメリットです。

 

各バンドの持ち時間は転換時間含めだいたい40分前後。

そのパフォーマンスの間に新規客を獲得しなければならないのですが、お客さんからすると目当てのバンド以外はただの無駄な時間となると捉える方も多く、バンドのメンバーに出演時間の詳細を聞いて、その時間にライブハウスに入って来て、終わったらそそくさと外に出てしまうということもしょっちゅうでした。

それでもせっかくだから他のバンドも1~2曲見てみようかな?と残る少数派に向けて、自分達の音楽をアピールするという新規客獲得はバンドにとって最も大変な作業でした。

 

じゃがいも少年達のバンドももちろん対バン形式でライブハウスと出演日程の調整をするのですが、近いジャンルを集めた方がお客さんの指向も揃え易いのですが、組み合わせも思うようにいかないのか、ビジュアル系バンドやヘビメタ系バンドなど、じゃがいも少年達のジャンルとは明らかに違う対バンで構成されていることもよくありました。

 

当時18、19歳のじゃがいも少年達からすると他のバンドはみんなお兄さんで、客席で小さくなっているとお兄さんバンド達がしゃべりかけて来てくれ、かわいがってくれたりしました。

中には事務所に所属しているというセミプロみたいなバンドもいて、事務所の社長が見に来るからがんばらなアカンみたいなことを言っていて、単純にうおーすげー!と憧れるじゃがいも少年達。

 

全国に数々あるライブハウスに毎日の様に4~5組のアマチュアバンドが出演していることになり、かなりのバンド人口がいた時代でした。

ライブ活動

高校卒業後の夏休み、三ノ宮のSHOUTでバンド2回目となるLIVEがブッキングされ、戦略としてはLIVE終了後にレコーディングしたオリジナル曲4曲をデモテープとして1本500円で販売することにしたじゃがいも少年達。

 

デモテープはダブルラジカセで地道にダビングし、曲のタイトルをタイプしたカッセトテープのケースに合わせたインデックスを切って入れて、中に小さく折り畳んだ歌詞カードを入れる作業を率先して請け負うじゃがいも少年。元来こういった作業が、むしろベースより好きだったじゃがいも少年。

 

他のバンド達を見ているときっちり次回のLIVEスケジュールの入ったチラシとアンケートを用意しており、それを参考にするじゃがいも少年達。

ブッキングライブでは他のバンドのライブを見れて、勉強出来るのに加え、宣伝戦略も自然と学べました。

 

それからしばらくは月1回程度の神戸のライブハウスでのLIVEを続け、お手製のチラシを折り込み、アンケートを作ってお客さんに名前と住所と書いてもらい、LIVEが終わるとじゃがいも少年が客席にアンケート回収BOXとデモテープを持参して、アンケート回収をしながら、デモテープを販売する営業活動を続けていくことになっていきました。

 

アンケートに住所と名前を書いてくれたお客さんには、次回LIVEがある時にハガキなどで告知し、バンドではオリジナル曲を増やし、リハーサルを重ね、せっせとレコーディングしてはデモテープを新しく作ってライブハウスで売るという地道な活動を続けることになっていきました。

ライブハウス

1993年の初夏、初めてのレコーディングで作ったバンドのデモテープと素人感丸出しのバンドプロフィール写真を当時のエンタメ系雑誌「ぴあ」とか「Lマガジン」などのライブハウスコーナーを参考にしながら、神戸にあるライブハウスにじゃがいも少年が持って行くことに。

 

当時の神戸にはチキンジョージという有名なライブハウスが君臨しており、名立たるアーティストがそこでLIVEを繰り広げていたのですが、当然高校卒業したてのアマチュアバンドがチキンジョージのステージにいきなり立てるはずもなく、まずは庶民的なライブハウスからということで、神戸三ノ宮のトアロード沿いの地下にあったSHOUTと新開地にオープンしたGIGというライブハウスに持ち込むことに。

 

ライブハウスのオーソドックスなシステムとしては、持ち込まれたデモテープやプロフィールを店長なりブッキング担当者が吟味し、似た様なジャンルだったり、バランスを見ながら4〜5バンド程を同じ日にブッキングし、チケットを発行し、それぞれのバンドにノルマを課し、1枚平均1,500円程のチケットを捌かせ、20枚〜30枚程のノルマ分を徴収し、ドリンク代500円を別途当日来るお客さんから徴収し、経営していくというのが主流でした。

 

つまり1,500円×ノルマ30枚の場合、チケットが売れようが売れまいが45,000円をライブハウス側に支払ってバンドは出演するのです。

 

そしてノルマ以上捌くことが出来ると、越えた分の50パーセントぐらいをチャージバックという形でバンドに還元、いわゆるバンドのギャランティになるというわけです。

 

1,500円のチケットを30人が買ってくれればいいのですが、高校卒業したてのアマチュアバンドにそんな集客能力がある訳もなく、必死で友達や知り合いに声を掛け、チケット代を割り引き、ノルマに届かない分は自分達で補填するのです。

 

当時の高校卒業したての若者達からすると1,500円は大金なので、とても定価で友達に買ってくれとは言えず、じゃがいも少年達は最初はチケット代を500円で販売していました。

せいぜい20名程の知り合いにチケットを買ってもらうのがやっとなので当然赤字で、それ以降LIVEの日は一人当たり約8,000円ほどの出費があるイベントとして認識されることになりました。

アーティスト写真

バンドのデモテープは良しとして、今度はバンドの全体写真が必要だということで、当時大流行したインスタントカメラの「写ルンです」を買って、じゃがいも少年の同級生に頼んでメンバー共々夜の六甲アイランドに繰り出し、バンドのイメージショット、いわゆるアーティスト写真を撮影することに。

 

各々が自分が格好良いと思う、自分が持っている一番イケてると思われる服をチョイスして、初のバンド写真撮影に臨んだじゃがいも少年達でしたが、年中皮ジャン&スキニージーンズ&ラバーソウルスタイルのギターM以外は残念なことに服やお洒落にとんと興味がなく、ダッさダさのTシャツやパーカーにGパン、チノパン、どこにでもあるスニーカーなどを履いてやって来て、更には格好良くキメてナンボのバンド撮影に表情や立ち方全てがぎこちなく、現像した写ルンですの写真はただの若者の記念撮影状態に。

 

「俺たちは実力勝負だ!」と早々にバンドのビジュアル面は放棄して、バンド活動を進めていこうと誓ったじゃがいも少年達でありました。

初レコーディングとデモテープ

高校卒業後、新生バンドはそれぞれの進路を歩みながら、週2〜3回のバンド練習を定例化しつつ、バンド活動をして行くにはまずはライブハウスに出演しようと考え、ライブハウスに出演するにはバンドのプロフィールとなるデモテープを作らなければと、Oの作るオリジナル曲を増やしつつ、曲の精度をリハーサルで上げて行き、まずは4曲オリジナル曲のレコーディングを地元のスタジオで行うことに。

 

当時に地元スタジオのレコーディング機材は家庭用の録音機器に毛が生えた程度で、レコーディングエンジニアであるスタジオの店長Kさんの指導の基、基本的にドラム、ベース、ギターのベーシックな演奏をまずは一発録りと呼ばれる手法で録音する為、誰かがミスをするとやり直しの緊迫したもので、じゃがいも少年含め、バンドの人生初レコーディングはとにかくミスなく曲を最後まで弾ききることでした。

 

数回録音した中で一番マシなものをチョイスし、そこにウワモノと呼ばれるギターのリードパートやソロ、歌やコーラスを重ねていきます。

レコーディングは1日掛かりで行われ、基本的にドラム&ベースはレコーディングの序盤に終わってしまうので、後は曲が仕上がっていくのは見守るだけのドラムIとベースじゃがいも少年。
自分達の演奏が音源となっていく作業は楽しくてしょうがありませんでした。

 

各パート全て録り終わるとその日は終了で、後日ミックスダウンと呼ばれる、いわゆる録音したそれぞれの音の音質やバランスを調整しながら徐々に全ての音を重ねて行き、LRの2チャンネルに曲を落とし込む重要な作業で曲を仕上げます。

 

ミックスダウンはバンドメンバーは横からあーだこーだ言うだけで、レコーディングエンジニアであるスタジオの店長Kさん1人で作業します。
各所バランスを取り終えてミックスダウンした音源をDATと呼ばれる磁気テープに落とし込んでレコーディングは終了。


当時はそのDATからマスターとなるカセットテープに音源をダビングして、それを家のダブルラジカセで更に別のカセットテープにダビングし、デモテープの完成!という時代でした。