じゃがいも少年のエンタメHISTORY

神戸生まれ神戸育ちの丸坊主いがぐり中学生が後にバンドでメジャーデビューし、バンド解散後、芸能事務所の音楽制作スタッフとして拾われ、大御所芸能人Kの運転手兼付き人を経て、敏腕!?マネージャーになるまでの思い出と、そんなじゃがいも少年から見た当時の特殊な芸能界の裏側なんかの記録を綴ります。

卒業デビューLIVE

高校生活が終わろうとしていた3月、じゃがいも少年はベースより得意なLIVEイベントの仕切りとして卒業式が終わった翌週ぐらいの終業式の日に卒業LIVEを企画しました。

もちろん新生バンドのお披露目の場として大事なデビューLIVEのステージを用意したのは言うまでもありません。

 

みんなが足を運び易い神戸三ノ宮の加納町にあった貸しホールを押さえ、出演バンドを募ります。
全部で4バンド集まり、いつものごとく頭割りでホールレンタル料を徴収して運営するのですが、毎回ヤイヤイ言って来る他のバンドの連中に押され、出演順をジャンケンで決めることに。

バンドの代表としてOが出て行ったものの見事に敗れ、じゃがいも少年達の新生バンドはなんとトップバッターに。


高校生のLIVEイベントの傾向として、イベントが始まってから徐々に人が集まって行き、最後が大盛り上がりになるのは定石で、どうしても1番目の出演の時はお客さんが揃っていないという状態は否めないので、みんながトップを嫌がります。

 

せっかくの新生バンドのお披露目なので、大トリを務めたかったのですが、ジャンケンで決めてしまったものはしょうがありません。とにかくそこにいるお客さん達にベストを見せよう!ということで、何の曲をやるのかミーティングを重ね、当時メンバー間で流行っていたBON JOVIやZIGGYのカバーに加え、Oのオリジナルも数曲披露することになりました。

 

持ち時間50分の中にこれでもかと曲を詰め込み本番に臨みます。
トップバッターの利点はお客さんが入る前に行われるサウンドチェックやリハーサルのセッティングのままLIVEを始められることです。

 

高校生バンドにありがちなのは本来のサウンドチェックとリハーサルはホールの音響さんなどのスタッフが調整する為のものなのですが、どうしても自分達のバンド演奏の練習になってしまうのは仕方のないことかもしれません。

 

なかな計画したタイムスケジュール通りリハーサルが進むことは難しく、どうしても少しずつ時間が押していき、開場時間ギリギリまでリハーサルがかかってしまいます。

いくつもバンドが出るイベントの場合、バンドとバンドのセッティングチェンジに時間を取られてしまうのと、アマチュアの場合は一度ステージに出て来て楽器機材をセッティングする姿がお客さんから丸見えで、ステージに登場する格好良さが損なわれてしまうのも難点なのですが、高校生なんてそんなことはお構いなしで、とにかく1曲でも多く演奏をお客さんに見て欲しいのです。

 

バタバタの中、いよいよ卒業LIVEが始まり、トップバッターであるじゃがいも少年の新生バンドのお披露目です。

まずはZIGGYの速いテンポのノリのいい曲を立て続けに3曲お見舞いし、自分達の演奏のクオリティをお客さんに知らしめます。


当時の神戸の高校生バンド界のそれぞれのパートでナンバーワンの実力の持ち主が集まったバンドですから(じゃがいも少年のベースの腕前は自称です笑)、まずは会場にいるお客さんが注目し始めたのが分かったじゃがいも少年。

 

BON JOVIのバラードを披露した所で会場から「うまーい!」と声が上がって来始めたので掴みはOKでしたが、ステージ袖にいる他のバンドから巻きの指令が出てしまい、用意していた曲を大幅にカットしなければならなくなってしまいました。

ステージ上でメンバーが集合して打ち合わせをし、泣く泣く曲を大幅カットし、Oのオリジナル曲を中心にLIVEを進め、最後のアップテンポの曲のエンディングでは観客から再度「うまーい!うまーい!」とあちこちで歓声が上がり、高校卒業LIVEでの新生バンドデビューLIVEは幕を閉じました。

 

LIVE後は同級生のLIVE打ち上げには顔を出さず、新生バンド4人で居酒屋に行き、ささやかな打ち上げの中、今後の展望などを話し合ったのでした。

初顔合わせ

伝説の!?ギタリストM、飛び抜けた技術のドラマーI、作詞作曲センス抜群のボーカルO、そしてコツコツベースを練習したじゃがいも少年。


当時の神戸の高校生バンド界を代表する!?同級生4人が揃い、高校3年の冬休み正月が明けた頃、とある雪の降る三ノ宮で4人は初めて顔合わせをすることに。

 

実質的にMとIが初顔合わせになったのですが、Mは開口一番「ドラムの子やろ?」とじゃがいも少年の時同様会話の入口のパターンをさらけ出すのに対し、IはMのTシャツに皮ジャンスタイルに対して「冬でもロッカーはそうなん?」とIらしい切り返しでした。

 

4人は三ノ宮の駅前の通りにある喫茶店「ピカソ」に入り、各々注文。
この日はバンド名を決めようという流れになり、それぞれが思い付くアイデアを出していきます。

自然とこのバンドは長くなりそうだと誰しもが思ったのか、あまり安易な名前は付けたくないというのがメンバーの本音だったのですが、だんだん集中力が切れてしまい、誰かが頼んだミートスパゲティに付いて来た粉チーズを手に取り、「CRAFT」でえーんちゃうん?などとふざけ合いながら、結束を固めて行くのでありました。

あのギタリスト

高校3年生の夏の終わり、念願のドラマーの加入が決まり、後はギターがいればという状態で、ある日ボーカルのOがベースのじゃがいも少年の所に「あのギターのMが入ってくれるかもしれない!」と興奮気味に駆け込んで来ました。

 

あのギターMというのは、当時の神戸の高校生バンドマン達の間では知らぬ者はいないぐらいのカッコいいバンドBのリーダー的存在で、中学からその存在は異彩を放ち、そのバンドの名前は別格として轟いていました。

そんな伝説のバンドBがどうやら最近解散したらしく、ギタリストMとコンタクトを取ったOがすかさず話を持ちかけたのでした。

 

とある日曜日、ギターMの自宅に話をしに行くことに決まり、じゃがいも少年とOはJR六甲道駅でギターのMと待ち合わせしました。
現れたMは革ジャンにスリムジーンズにラバーソールを履き、髪は後ろで無造作に束ね、耳には十字架のデザインのピアスをしており、正にロッカーのお手本的な出立ちで登場しました。

Mは開口一番、ビビるじゃがいも少年に「ベースの子やろ?」と気さくに話しかけ、3人はMの自宅に向かいます。Mの部屋には高そうなギターが数本並び、Mは自分のイスに座るや否や立てかけてあるギターの内のレスポールを手に取り、呼吸をするかの様にいじり出しました。
Oとじゃがいも少年は自分達で作ったオリジナル曲のカラオケテープをMに聴かせたものの、断られるのが怖くてなかなか一緒にバンドをやろうと言い出せません。

オリジナルを3曲ほど聴きながらMはおもむろにテープに合わせてギターを弾き始め、「こんな感じでもえーんちゃうん?」と言って即席アレンジを始めました。
その様子に「高校生ギタリストとは格が違う!」と感心&緊張するじゃがいも少年。すかさずOが「一緒にやらへん?」と本題に切り込むと、Mはあっさり「えーよ」

 

こうしてギターの加入も決まり、新生バンドが動き始めた高校3年の冬でした。

即席バンド

ベースのじゃがいも少年とボーカルO、そして別の高校のギターのUとドラムのI。
この両校のバンド界を代表する!?メンバーの集結にバンド仲間達は盛り上がり、夏休みに行われたホールLIVEのイベントではOのオリジナルに加え、BOOWYやZIGGYの曲で構成、そのイベントのトリを飾りお客さんもたくさん詰めかけ大いに盛り上がりました。

 

夏休み明けには地元神戸の溜まり場的スタジオ主催の大きなLIVEイベントへの出演の話が舞い込み、ポートアイランドの大きなホールで行われたLIVEイベントの大トリになぜかその高校生即席バンドが大抜擢され、アンコールまでさせてもらうことに。

 

同級生や後輩達も集結してくれこれまた大いに盛り上がったLIVEの打ち上げを灘にあるロイヤルホストでささやかに行いました。

その席でじゃがいも少年とOは高校を卒業したら本格的なバンド活動をやって行くことをUとIに伝え、その正式メンバーとしてUとIを真剣に誘いました。

 

ドラマーIはじゃがいも少年同様Oの作詞作曲センスにビビビと感じていて、メンバーとして加入を快諾。しかしUは元々ボーカルで、ギタリストとして真剣にやっていくのは自分の中ではないというハッキリとした意見から残念ながら加入とはなりませんでした。

あのドラマー

高校3年の夏の終わり、Oの陸上部の後輩が主催するホールLIVEに先輩バンドとして声が掛かりました。
オリジナル曲のアレンジ・録音作業を続けていたOとじゃがいも少年でしたが、これはいい機会だと、Oの中学の同級生で別の高校でBOOWYやZIGGYなどのコピーバンドを組んでいたUに声を掛け、即席バンドを組むことになりました。

 

もちろんじゃがいも少年がベース、Oがボーカル、そして元々バンドではボーカルだったUがギターを担当となり、ついでにUのバンドのドラマーIを連れて来てくれることになり、一気に4ピースバンドが結成されました。

 

このドラマーIはじゃがいも少年とOとのBOOWYのコピーバンドが主催する高校生LIVEに出演してもらったUのバンドのメンバーで、そのドラムテクニックはおそらくこの界隈の同世代の中で間違いなくトップクラスだと思える程巧く、そのLIVEの演奏を見ながらじゃがいも少年とOは「このドラマーをメンバーとして引き抜きたい。」と話しており、正に願ったり叶ったりで一緒にバンドをやることになったのでした。

 

その即席バンドでミーティングを重ね、Oのオリジナル曲のカラオケ音源などを渡し、LIVEに向けてのリハーサルとして初めてスタジオに入ったのですが、Iは渡してあったオリジナル曲のドラムマシンで作ったドラムパターンを寸分狂わずコピーしており、高校生とは思えないドラム技術でOとじゃがいも少年の度肝を抜きました。

 

この出会いがプロへの道のまた大きな一歩となったのでした。

プロを目指そう

Oが元々中学から組んでいたバンドは音楽性の違いなどで解散し、Oとじゃがいも少年はBOOWYのコピー中心のバンド活動の傍ら、Oの作るオリジナル曲を音源にするにはどうすればいいか考え、マルチトラックレコーダー(通称MTR)と呼ばれる録音機器と、ドラムパターンなどをプログラミング出来るシーケンサーという機器をじゃがいも少年が居酒屋の皿洗いのバイトで稼いだお金で購入し、研究しました。

 

MTRとは当時カセットテープを4つのトラック(チャンネル)に分けて多重録音出来る機械で、例えば1トラック目にはドラムを録音し、2トラック目にはベース、3トラック目にはギターというように順番に録音を重ねていき、全てのトラックを同時に流せば一つの曲になるという家庭用のレコーディング機材で、それから一気に目覚ましく進化したレコーディング技術の走りとなる機械でした。

 

シーケンサーはYAMAHAのQY10という機械で当時のミュージシャンはこのシリーズを知らない者はいないと言っても過言ではない程メジャーな機材で、ドラムパターンをはじめ、シンセサイザー的な音を組み合わせて曲も作れてしまう優秀な代物でしたが、じゃがいも少年は主にMTRに録音するドラムマシンとして使用していました。

 

現代の様にパソコンソフトを使ってモニター上で簡単に切り貼りしたりすることが出来ず、例えばAメロをもう少し長くしたいとなると、変更点からプログラムし直さなければならず、非常に面倒臭くて時間のかかる作業になってしまうのですが、Oの作るオリジナル曲を録音したい一心で、コツコツとがんばるじゃがいも少年。

 

高校3年の夏が終わり、部活も引退し時間が出来たじゃがいも少年は、放課後や休日にはOの家にそれらの機材とベースを運びこんでベースやギターを録音してカラオケを作りました。

 

三ノ宮の楽器屋にバンドメンバー募集の張り紙をしたり、雑誌「バンドやろーぜ!」にメンバー募集の投稿をしたりしながら、Oとじゃがいも少年は「高校を卒業したらプロを目指そう!」とお互いに意識し、確認し合うようになっていきました。

高校生LIVE

バンドのお披露目の場、すなわちLIVEをやりたくて仕方なかったじゃがいも少年は積極的にLIVEを企画しました。

 

2回目となる音楽室LIVEでは全レパートリーを演奏し、高校2年最後の終業式の日にはOのバンドの写真が入口に貼り出されているライブハウスを借りて、他のバンドを誘い、自分達のバンドがトリ(最後の出番)を務めるLIVEイベントの企画・運営を行い、高校3年生の夏休み前には文化センターの大ホールを借りてLIVEイベントを行いました。

 

画用紙を切ってチケットを作ったり、LIVE当日のタイムスケジュールを組んだり、会場代を回収したり、自分がステージに立ちたい一心でLIVEイベントを仕切るのが全く苦ではなかったじゃがいも少年。

 

高校生のLIVEイベントではとにかくお金の回収が大事で、当時1日約11万円もする会場代を出演者の頭数できっちり割り、それをバンド毎に回収していきます。

 

チケット代なんてたかだか200〜500円程度なので充てには出来ず、11万円を全出演4バンド18人前後で割って1人約6,000円程度を徴収するのですが、高校生にとってはかなり大金なので、LIVE当日は楽しい替わりに大金が吹っ飛ぶというのが当時の常識でした。

 

会場を押さえたり、チケットやタイムテーブルを作ったりと出演する以外に手間がかかるのですが、じゃがいも少年には運営手数料を取るという発想がなかった為、全員同じ条件で自分もきっちり割り勘を払い、時には出演順をジャンケンで決め、負けてトップバッターになってもしょうがないと受け入れる状態でした。

 

留年した1コ上の怖い同級生なんかもバンドに参加しており、あーだこーだイチャモンを付けて来るのを渋々受け入れながら、LIVEを運営していったじゃがいも少年。
それでもやっぱりバンドが楽しくて仕方なく、部活(水泳部)にバンドに青春を謳歌したのでした。